小諸大手門保存修理工事竣工
高橋 昭平(東京小諸会副会長)
 一 国重要文化財に指定
 小諸城大手門(通称 門)は、明治維新後私有となり、会席料理屋や小諸義塾の仮教室等として利用され、内部はその用途に一部改造されていたが、主要構造部は旧規をとどめていた。
 平成3年に所有者の大塚伊吉さん、大塚重雄さん、大塚長節さん、一族の皆さんから小諸市に寄贈されたが、近世初頭の大型の城門として価値が高いため、平成5年12月には国の重要文化財として指定された。
 この度、小諸市により大手門としての姿に復原するための保存修理工事がなされ、この程竣工し、去る平成20年5月25日芹澤 勤小諸市長により竣工式が盛大に挙行され一般に公開された。
 竣工式には、来賓として山東昭子参議院副議長、漆原良夫衆議院議員、レンツェンドー・ジグジット駐日モンゴル国特命全権大使等多数のお歴々のほか、大手門造営者仙石秀久の後裔仙石宗久氏も出席され、芹澤市長外8名の方々によりテープ・カットが華やかに挙行された。
 わが東京小諸会からも、役員一同が来賓として招待を受け、小山洋之介会長、小山清吾副会長ほか多数が出席し、郷里の名門の復元を喜び、これに至るまでの芹澤市長ほか小諸市の皆さんの労を労い祝った。
 また、式の後、開門を祝って「ごち餅」が撒かれ、さらに門の周辺の広場では、小諸伝統の「小室節」や「ささら踊り」、「健速神社の神輿」のお練り等が賑やかに催され、大手門の修理竣工が祝われた。
 この機会に、この大手門の歴史的成立の経緯及び建築の概要等についてご紹介することとしたい。
 二 小室氏、大井氏の築城
 そもそも、小諸城の起源は、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曾義仲の武将)が、現城址の東側に築いた館(宇頭坂城)に始まる。
 やがて小室氏は、南北朝時代に南朝方の新田氏に属して衰退し、北朝方の大井氏が勃興して小諸佐久地方を支配した。しかし、応仁の乱以後の戦国乱世で、この地方も群雄の草刈場となり、上杉・村上・北条・武田などの佐久侵攻が始まる。
 文明16年(1484)村上氏の攻撃により、岩村田の大井宗家が滅亡し、大井光照は小諸に逃れて館を構える。しかし、世はすでに戦国騒乱期に入っていたため、光照の子光忠は要害の地を求め、長亨元年(1487)中沢川のほとりに小諸城の前身である鍋蓋城を築城した。さらに激化する乱世に備え、その子光安が出城として乙女城、別名白鶴城を現在の二の丸付近に築城し、周辺の幼稚には市場を配置し外敵に供えた。
 三 武田の軍師 山本勘助の築城
 天文23年(1554)甲斐の武田信玄の侵攻で、鍋蓋城以下の諸城は武田氏の手に落ち、以後約30年間、武田氏の城代によって支配される。信玄はこの地の重要性にかんがみ、重臣の山本勘助と馬場信房に命じて、鍋蓋・乙女城を取り込んだ新たな縄張りをして城郭を整備し、統合的な大城とさせた。
 天正10年(1582)武田氏滅亡後、小諸城は織田信長の領国となり、滝川一益の持城となるが、信長が本能寺に倒れると、北条氏と徳川氏の争奪戦が展開され、やがて徳川家康の領有となり、依田信蕃が城代となり、信蕃戦死後、小諸城は子の松平(依田)康国に与えられた。
 四 仙石氏の築城と城下町整備
 天正18年(1590)豊臣秀吉が天下統一を果たすと、小田原攻の軍功により再起を果たした仙石秀久が、5万石で小諸に封ぜられる。秀久は、城の大改修に取り掛かり、今日遺構の残る天下に類ない堅固な城を完成させた。
 また、小諸城の近隣の住民を、城下の北国街道沿いに移住させ、城下町を形成した。これが今日の小諸の街の原型である。
 その後、世は徳川の天下となり泰平の時代が続く。仙石氏は秀久の子忠政のとき元和8年(1622)上田城に移り、小諸城は徳川家光の弟の忠長の領有するところとなり、城代が置かれた。
 寛永元年(1624)、松平憲良が入封、その後青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、石川乗政・乗紀とめまぐるしく城主が変わり、石高も5万石から2万石へと減らされてきたが、極めて要衝な藩領のため、歴代藩主には徳川譜代の大名が配されてきた。
 元禄15年(1702)、越後国与板藩より牧野康重が1万5千石で入封すると、以来版籍奉還まで約170年間、牧野氏が10代にわたって居城とした。
 五 大手門(瓦門)の建築概要
 小諸城大手門は、場内への最初の門で、慶弔17年(1612)、先述の仙石秀久により築かれたといわれている。秀久は武田氏以来の城郭を大改修し、中世の城郭から石垣・瓦・礎石建物の採用という新たな城郭=近世城郭を築き上げた。これが現在の小諸城(懐古園)の城郭としての原型であり、秀久の築城の時から唯一残されている建物がこの大手門である。
 構造は5間幅櫓門、屋根は入母屋造りで本瓦葺、1階は正面及び背面の中央間に太い鏡柱を入れ、また、正面の出入口となる柱は欅材を用いて、蛤手斧仕上げの大材を使用した豪壮な構えとする一方で、2階は面取角柱、その柱頂上には舟肘木を載せ、軒は反増しのある垂木を小舞打として、軒反りのある軽快な造りとし、内部は添乗を張って蟻壁を廻すなど、住宅風の造りとしている。
 この門を建てるに当たり、秀久は江戸から大工を呼び、瓦は三河から運んだとされる。当時はまだ瓦葺の門は珍しかったため、「瓦門」とも呼ばれた。
 六 今回の保存修理工事の概要
 今回の保存修理工事では、手続きとして、平成18年1月に小諸市が現状変更許可申請書を文化庁へ提出、同年3月許可を得、平成17年から19年にかけて工事を行った。
 工事に当たっては、平成5年に策定された小諸城大手門調査報告書や石倉文書(石倉正雄さん寄贈の享保5年の修理記録=市指定文化財)などをもとに工事が進められ、史料の確実なものは出来る限り旧形式にかえすことを方針として行われた。
 現状変更の具体的内容は、明治の改造部分を取り去り、小諸城の入口に当たる城門の大手門としての、豪壮な構えを誇っていた享保5年(1720)改造時の姿に復旧整備することとして、鯱や大扉の復原を行うなどし、あわせて東西両石垣に孕み出しがあり危険なため、建物の解体にあわせて積み替えを行った。
 総事業費は、2億4千4百万円余で、その2分の1を国庫補助金によっている。
 この一連の工事により、大手門は通り抜けが可能となり、2階は資料展示スペースとして公開された。門周辺は都市公園である「大手門公園」として整備されている。
(以上は、小諸市商工観光課編「小諸城物語」、小諸市教育委員会編「重要文化財 小諸城大手門」等を基に編集した。 高橋)

inserted by FC2 system